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教皇フランシスコ 2022年1月19日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール 教皇フランシスコ 2022年1月19日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (Vatican Media)

「優しさにおける父、聖ヨセフ」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、1月19日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、1月19日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜日恒例の一般謁見を行われた。

 謁見中、教皇は聖ヨセフをめぐるカテケーシスで、「優しさにおける父、聖ヨセフ」をテーマに講話された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 今日は、「優しさにおける父」としての聖ヨセフについて考察を深めたい。

 福音書は、ヨセフが父親としてどのようにイエスに接したのかを具体的に記していない。しかし、ヨセフが「正しい人」であったことは確かであり、そこからイエスに対する教育を想像することはできる。

 ヨセフはイエスが「知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛され」(ルカ2,52)成長していく姿を見ていた。主がイスラエルに対しそうしたように、ヨセフは父としてイエスに

 「腕を支えて歩くことを教え」、頬ずりするために抱き上げ、「身をかがめて食べさせた」(参照 ホセア11,3-4)。

 福音書が示すように、イエスは神とその愛について話す時、常に「父」という言葉を用いている。また、イエスの説教の多くのたとえでは、「父」が中心的役割を担っている。その中で最も知られるのは、ルカ福音書の「放蕩息子」のたとえ(参照 ルカ15,11-32)に登場する父親であろう。

 このたとえでイエスはこう語る。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、哀れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15,20)。放蕩息子は父から罰せられると思っていたにも関わらず、父の抱擁を再び見出した。

 神の優しさは、この世の論理より偉大なものである。それは思いがけない形の裁きである。神はわたしたちの罪や過ちや堕落に驚かれないが、わたしたちが神ご自身の愛に心を閉ざすこと、わたしたちの信仰の欠如に驚かれる。神の愛の体験の中には、偉大なる優しさの体験がある。それを最初にイエスに教えたのは、まさにヨセフであった。

 優しさとは、感情的な問題ではない。それは、自分のありのままの惨めさのうちに、愛され、受け入れられ、神の愛を通して変容されたと感じる体験である。

 神はわたしたちにそれぞれの能力を託されただけでなく、贖われた弱さをも託された。神の優しさは、自分の脆さに触れることを助けてくれる。そのためにも、特にゆるしの秘跡を通し、真理と優しさを体験しつつ、神のいつくしみと出会うことが大切である。神から来る真理は、わたしたちを罪に定めるものではなく、わたしたちを受け入れ、抱擁し、支え、ゆるすものであることを忘れてはならない。

 聖ヨセフの父性の中にわたしたちを映し出しながら、主の優しさと愛を受け入れることで、自分も同じように人を愛せる者に変容させられたかを自問してみよう。

 この「優しさの革命」無くしては、わたしたちは、再び立ち上がることを妨げ、贖いと罰を混同させる裁きの中に閉じ込められてしまう。

 こうしたことから、今日、特に刑務所にいる兄弟姉妹たちを思い起こしたい。過ちを犯した者がその代償を自ら払うことは正しいことである。しかし、過ちを犯した者が自らの過ちから贖われることも同様に正しいことである。受刑者たちを思い、彼らに対する神の優しさを考えよう。そして、彼らが希望の窓を通して、より良い人生への道を見つけられるように祈ろう。

 優しさにおける父、聖ヨセフよ、
 わたしたちが自分の最も弱い部分において愛されることを
 受け入れられるよう助けてください。
 わたしたちが自分の貧しさと神の愛の偉大さの間に
 いかなる妨げをも置くことがありませんように。
 ゆるしの秘跡に近づくための熱意を心に引き起こしてください。
 ゆるされると共に、
 兄弟姉妹をその貧しさのうちに優しさをもって愛することができますように。
 過ちを犯し、その代償を払う人々のそばにいてください。
 彼らが正義と共に、再生のための優しさを見出せるよう助けてください。
 そして、彼らに再生のための第一歩は、
  御父のいつくしみを感じるために真摯にゆるしを乞うことだと教えてください。
 アーメン。

19 1月 2022, 16:49

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