「人々の中に憐みをもって自らを浸すイエス」教皇、日曜正午の集い
教皇フランシスコは、10月17日、バチカンで「お告げの祈り」の集いを行われた。
教皇は集いの説教で、この日の福音朗読箇所、マルコ福音書中の、イエスに願い出るヤコブとヨハネのエピソード(マルコ10,35-45)を観想された。
このエピソードでは、イエスの弟子のヤコブとヨハネが自分たちの願いをかなえて欲しいとイエスに申し出る。それは、イエスが栄光を受ける時、彼らを左右に座らせて欲しいというものであった。これに対し、イエスは、真の栄光は他者の上に立つことによってではなく、イエスがエルサレムで受ける洗礼を受けることによって、すなわち十字架を通して得られると教えた。
教皇は「洗礼」とは、「浸すこと、浸けること」を意味するが、イエスはわたしたちの救いのために自らを捧げながら、受難を通して死に浸かった、と指摘。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(参照 マルコ10,43)とイエスの言葉にあるように、神の栄光は奉仕の愛にあり、支配を渇望する権力にあるのではない、と述べられた。
教皇は、弟子たちの「浮かび上がりたい」「人々の間で頭角をあらわしたい」という態度と、イエスの「自らを浸す」態度を対比。
弟子たちの「浮かび上がりたい」という世俗的な思いは、わたしたちも常にさらされている誘惑である、と述べた教皇は、野心をかなえ、成功の階段を上がり、重要な位置につきたいという、個人的な優位の追求心は、霊的な病をもたらすもの、と語られた。
こうした世俗的な論理に対して、他者の上に立つよりも、他者に仕えるために下に降り、他者の上に浮かび出るよりも、出会う人々の生活の中に憐みをもって自らを浸す、イエスの生き方を教皇は指し示された。
そして、人類の傷ついた歴史の中に身を浸し、天から見下ろすのではなく、わたしたちの足を洗うために身を低くされた、十字架につけられたキリストを見つめるようにと招かれた。
わたしたちは洗礼を通してイエスの中に「浸される」という恵みを受けた、と述べた教皇は、この恵みに新たに力づけられ、自分の利害の追求ではなく、イエスのように人々に奉仕する生き方を目指せるようにと、聖霊の助けを祈られた。