教皇フランシスコは、8月4日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
夏期のために7月中休止されていた一般謁見は、この日、およそ1ヵ月ぶりに再開された。
この謁見のカテケーシスで、教皇は先々月より始めた聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」の考察を続けながら、「福音はただ一つ」をテーマに講話された。
教皇は、聖パウロの福音と福音宣教に対する情熱と献身に触れながら、この情熱に駆り立てられたパウロが記す数々の言葉を以下のように引用。
「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためです」(1コリント1,17)
「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(1コリント9,16)
「キリスト・イエスの僕(しもべ)、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(ローマ1,1)
パウロのこうした言葉に、福音を皆にもたらすために選ばれた者としての自覚、その使命のために全力を尽そうとする決意を、教皇は読み取りつつ、このようなパウロにとって、ガラテヤの信徒たちが誤った方向に進みかけていたことは、失望をもたらすものであった、と述べられた。
教皇は、パウロがこの書簡を送っていた時代、四つの福音書はまだ記されておらず、パウロにとっての福音とは、彼の説教、すなわち、救いの源としてのイエスの死と復活を告げることであった、と説明。
パウロの告げた福音とは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れたこと」(参照 1コリント15,3-5)であり、約束の完成、すべての人にもたらされた救いであるこの福音を受け入れる者は、神と和解し、神の子として迎えられ、永遠のいのちを受け継ぐことを意味していた、と教皇は話した。
ガラテヤの信徒への手紙で、パウロは、かくも偉大な賜物を前に「ほかの福音に乗り換えようとしている」(ガラテヤ1,6)彼らを危惧し、新しい宣教者たちが説教したことは福音ではなく、むしろ信仰から得る自由への到達を妨げるという意味で、真の福音をくつがえすものとして警告している、と教皇は語った。
福音はただ一つ、それはパウロが告げ知らせたものであるが、しかし、その福音が真であるのは彼が告げたからでなく、イエス・キリストのものであるため、とパウロは次のように明言している。
「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(ガラテヤ1,11-12)。
教皇は、ガラテヤの信徒たちの問題は、彼らが良い意図に促されてのことに思われるだけに、一見、矛盾して見える、と指摘。ガラテヤの信徒たちが新しい宣教者たちに耳を傾けたのは、割礼を受けることで、より神の御旨に沿い、それによっていっそうパウロに喜ばれると考えてのことであった、と推測された。
パウロの敵たちは、父祖たちから受け取った伝統への忠実に燃え、純粋な信仰は律法を順守することにあると考え、さらには、こうした忠実さから、伝統にあまり忠実でないように見えるパウロに対する、ほのめかしや疑いを正当化するまでになっていた、と、教皇は当時のガラテヤの教会における状況を振り返った。
一方で、パウロ自身は、彼の使命が神から来たものであることを深く自覚し、福音の新しさに対する完全な情熱に動かされていたがゆえに、特に若いキリスト者たちに与える影響を司牧的に憂慮し、彼らに最高の真理を得させるために、この信徒たちの「良い意図がもたらした迷路」を解きほぐす必要を感じていた、と解説された。
教皇は、歴史の中で、そして今日も、いくつかの運動が独自の方法で、時には真のカリスマをもって福音を説きつつも、最後には度を越して、福音を一つの「運動」に閉じ込めてしまうことがあった、と語り、これらはキリストの福音でなく、運動の創立者の福音であったために、深い根を張り実をもたらすことができなかった、と話された。
それゆえに、ガラテヤの信徒たちに対するパウロのはっきりした言葉は、彼らにとってだけでなく、わたしたちにも有益なものである、と説かれた。
