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教皇、3人の神のしもべの英雄的徳を承認

教皇フランシスコは、3人の神のしもべの英雄的徳を認める教令を承認された。

 教皇フランシスコは、8月30日、列聖省長官セメラーロ枢機卿とお会いになり、この席で3人の神のしもべの英雄的徳を認める教令を承認された。

 この教令によって、英雄的徳が認定され、新たに尊者の敬称を付された神のしもべ3名は次のとおり。

 - プラチド・コルテーゼ神父(司祭・コンベンツアル聖フランシスコ修道会、クロアチア1907 - イタリア1944)

 - マリア・クリスティーナ・チェッラ・モチェリン(信徒・家庭における母親、イタリア1969 - 1995)

 - エンリカ・ベルトラメ・クアットロッキ(信徒、イタリア1914 - 2012)

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 尊者プラチド・コルテーゼ神父は、1930年に司祭に叙階され、イタリア・パドヴァの聖アントニオ大聖堂で奉仕、後に月刊誌「メッサジェーロ・ディ・サンタントニオ」の編集長を務めた。第二次世界大戦中、当時の駐イタリア教皇大使からの委託で、パドヴァ近郊の収容所のクロアチアやスロベニア出身拘留者の世話を行ったほか、1943年のイタリア・連合軍間の休戦協定締結後は、連合軍兵捕虜や、ユダヤ人をはじめナチスに迫害されている人々を逃がすための助けをした。しかし、こうしたことが、ナチス・ドイツから政治的活動と見なされ、1944年、修道院から連行され、拷問の末、亡くなった。

 尊者マリア・クリスティーナ・チェッラ・モチェリンは、ミラノ近郊に生まれ、高校時代、ドン・ボスコの扶助者聖母会の共同体で召命識別の歩みを始めたが、16歳で、後に夫となるカルロと出会い、自分は家庭生活に召されていることを確信した。2年後、左足にサルコーマが発生するも、治療を続けながら高校を卒業。1991年に結婚したカルロとの間に、2児を授かった。第3子を妊娠したばかりの時、病気が再発し、胎児に影響を与えない治療を選択。その頃、誕生を待つ第3子に宛て、「リカルド、あなたはわたしたちへの贈り物です […] 一人の子のために耐える価値のない苦しみなどこの世にはありません」と手紙を記した。1994年、第3子リカルドを出産。その後、標準的な治療を再開したが、1995年に26歳で帰天した。

 尊者エンリカ・ベルトラメ・クアットロッキは、福者ルイジ・ベルトラメ・クアットロッキと福者マリア・コルシーニ夫妻の第4子として生まれ、キリスト教的な愛と信仰の息づく家庭の中に成長した。司祭になった二人の兄と、修道女になった姉と同様の道を歩もうとしたが、エンリカの召命は高齢の両親のもとに留まりながら、自らの信仰を歩むことにあった。聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会、赤十字、カトリック・アクションなどの活動を通し、貧しい人々や病者に奉仕した。大学で美術史を専攻、卒業後、高校で教鞭をとった。1976年、文化財・環境省の管理責任職に就く。病気や様々な困難の中でも聖体と祈りを中心とした生活を続け、晩年は危機にある夫婦たちのために信仰のメッセージを伝えていた。

30 8月 2021, 18:16