教皇フランシスコは、8月8日(日)正午、バチカンで「お告げの祈り」の集いを持たれた。
祈りに先立つ説教で、教皇は、この日の福音朗読箇所(ヨハネ福音書6,41-51)について観想された。
この箇所で、イエスはパンの奇跡を見た群衆たちに説教を続ける。そして、彼らの先祖が荒れ野で食べたマンナとは異なり、天から降って来た生きたパンとしてのご自分を示し、「わたしは命のパンである」(ヨハネ6,48)と明言される。
「命のパン」とは何か、と問われた教皇は、生きるためにはパンが必要だが、イエスは自分自身をパンとして、すなわち人が毎日生きるために不可欠な存在として啓示された、と話された。
教皇は、わたしたちはイエス無しでは「生きる」と言うより、「何とかやっている」状態に過ぎない、と述べ、イエスだけがわたしたちの魂を養い、自分では克服できない悪からわたしたちを赦し、愛されていると感じさせると共に、愛する力、赦す力、平和を心に与えることができる、と語られた。
「わたしは命のパンである」というイエスの言葉は、イエスの使命のすべてを要約するもの、と教皇は強調。イエスは、人々に食べ物を与えるだけでなく、人々が命を得られるように、自分自身、自分の命、自分の肉を与えるようにと御父が願っておられることをご存じだった、と話した。
「わたしは命のパンである」。この言葉が聖体の賜物に対する驚嘆をわたしたちに呼び起こす一方で、福音書の人々はイエスのこの言葉をいぶかしがり、それに対して憤慨していた、と教皇は語りながら、わたしたちもまた、天にいてわたしたちの生活に口出ししない神の方が都合がよいと思うことがないだろうか、と問いかけられた。
しかし、世界の具体性の中に入るために人となられた神は、わたしたちのすべてを心にかける方であるゆえに、わたしたちはイエスに苦しみや不安など多くを打ち明けることができる、と教皇は話された。
教皇は、イエスが望まれるのは、わたしたちとのこの親しい絆であり、一方で、望まれないことは、命のパンであるイエスが脇に置かれ、必要な時だけ呼び求められることである、と語られた。
わたしたちは、たとえば夕食を家族ととるように、一日に何回かは誰かと食事を共にすることがあるだろう、と述べた教皇は、パンを割く前に、イエスをお招きし、その日わたしたちがしたことと、できなかったことを祝福していただくのは素晴らしいことである、と話された。
そして、家族的な祈りをもって、イエスを家に招くならば、イエスはわたしたちと食卓を共にされ、わたしたちはより大きな愛によって空腹を満たされるだろう、と語られた。