「未熟な信仰から、神の御旨にかなう信仰へ」教皇、日曜正午の集い
教皇フランシスコは、8月1日(日)、正午の祈りをバチカンの広場の信者たちと唱えられた。
この集いで教皇は、同日の福音朗読箇所、ヨハネ福音書の一節(ヨハネ6,24-35)を取り上げ、説教を行われた。
このエピソードの冒頭で、イエスを捜し求める群衆がいくつかの小舟に乗ってカファルナウムに向かう様子が記される。
教皇は、人々がイエスを捜すのは良いことに思われるが、福音書は神を捜すだけでは十分ではなく、神を求める理由を自問する必要があることを教えている、と話された。
実際、イエスが「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹したからだ」(同6,26)と指摘しているように、人々はイエスのパンを増やす奇跡を目にしても、その意味を理解できず、その関心は奇跡の外面と、パンという物質的な次元に留まっていた、と教皇は述べた。
教皇は、ここで「なぜわたしたちは主を求めるのか」「自分の信仰の動機は何なのか」を各自が問い、見極める必要を強調。なぜなら、多くの誘惑の間には、「偶像」に対する誘惑が存在するからである、と話された。
わたしたちは、自分たちの必要や、問題の解決、自力では得ることのできない恵みのために神を求めることがあるが、こうした理由だけで神を求めるなら、信仰は表面的なものに留まってしまう、と教皇は警告。それでは、空腹を満たすために神を求め、満足した後には神を忘れてしまうのと同じである、と語った。
このような未熟な信仰の中心に神はなく、ただわたしたちの必要だけが存在する、と述べた教皇は、神の心にわたしたちの必要を伝えるのは正当なことであるが、神はわたしたちの期待をはるかに超える方であり、何よりもわたしたちとの愛の絆を生きることを望まれ、その愛は無私にして無償である、と話した。
また、教皇は、人々がイエスに向けた「神の業を行うためには、何をしたらいいでしょうか」(同6,28)という問いに注目。これは、いわば「わたしたちの神の探求を清いものとするためには、どうしたらいいでしょうか」、「自分の必要だけを考える、魔法のような信仰から、神の御旨にかなう信仰に移るには、どうすべきでしょうか」とイエスに問うものである、と説明された。
人々のこの問いに、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(同6,29)と答えられる。
教皇は、ここでイエスは神の業とは神が遣わされた者、すなわちイエスご自身を人生に受け入れることと答え、「イエスとの愛の物語を生きる」という道を示された、と語った。
こうした神とわたしたちの関係は、わたしたちの人間関係や社会生活にも当てはまることと教皇は述べつつ、わたしたちが自分の必要を満たすために他人を利用する時、そこに真の関係は育たず、また、社会が人間ではなく利害を中心に置く時、その社会はいのちを生み出すことができない、と説かれた。
教皇は、空腹を満たすための物質的なパンの心配だけでなく、いのちのパンであるイエスを受け入れ、イエスの無償で計算のない寛大な友情から、わたしたちもまた互いに愛し合うことを学ぶ、これが今日の福音のメッセージである、と話された。