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教皇フランシスコによる、2021年6月2日の一般謁見 バチカン・聖ダマソの中庭 教皇フランシスコによる、2021年6月2日の一般謁見 バチカン・聖ダマソの中庭 

「わたしたちはイエスの祈りの中心にいる」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、6月2日(水)、バチカンの聖ダマソの中庭で一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、6月2日、バチカンの聖ダマソの中庭で、水曜恒例の一般謁見を行われた。

 この謁見で、教皇は「キリスト教的祈り」をめぐるカテケーシスとして、「イエスと弟子たちの間で不可欠で本質的な祈り」について考察された。

  福音書は、イエスと弟子たちの関係において、いかに祈りが本質的なものであったかを示している、と教皇は強調。

 「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6,12-13)と、福音書にあるように、何よりもまず使徒たちを選ぶ際に、イエスは祈り、神と対話されている、と話された。

 イエスは公生活でご自分の友たちのために繰り返し祈っておられるが、中でも使徒たちを神から受け取った者たちのように心にかけ、彼らの回心を忍耐強く待っておられた、と教皇は語った。

 イエスの使徒たちに対する辛抱強さは、ペトロに対する愛において頂点を見せる。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22,31-32)という、最後の晩餐でイエスがペトロに向けた言葉を教皇は示された。

 教皇は、弟子たちの信仰が後退するさなかにも、イエスの愛は消えることなく、むしろより強まることは驚きである、と述べ、こうした時こそ、わたしたちはイエスの祈りの中心にいる、と話された。

 また、「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは『群衆はわたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねに」なり、それに対しペトロは「神からのメシアです」と答えたように(参照 ルカ9,18-20)、イエスはその公生活の重要な局面で、祈ると共に、弟子たちの信仰を確かめていることにも注意を向けられた。

 このような信仰の確認は、弟子たちにとって一つの到達点のように見えるが、それに対し、これは新たな出発点であった、と教皇は述べ、実際、この後でイエスはご自身の受難と死と復活を予告し、そのミッションはますます上り坂になっていく、と語られた。

 教皇は、イエスの受難と死の予告は、弟子たちに、そして福音書を読むわたしたちにも本能的な拒否感を与えるものであるが、ここで祈りは光と力のただ一つの源であり、わたしたちは信仰の上り坂に出会うたびに、より強く祈らなければならない、と話された。

 そして、教皇は、この受難と死の予告に続く、イエスの変容のエピソードを観想。イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登り、そこでイエスは真っ白に輝き、モーセとエリヤと語り合っていた。

 教皇は、このイエスの栄光を先取りする出来事が、祈りの中に起きたことに注目。御子の祈りは、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9,35)という御父の、弟子たちに向けたはっきりとした言葉を引き出した、と話された。

 イエスは、ご自分のように祈ることをわたしたちに望まれるだけでなく、わたしたちの祈りが虚しく実りがないように思われる時でも、イエスの祈りに信頼するよう招いている、と教皇は述べ、イエスはわたしたちのために、今この瞬間も祈っておられることを、決して忘れてはならない、と説かれた。

 そして、教皇は、イエスに信頼することで、わたしたちのおぼつかない祈りも、鷲の羽に乗ったかのように、イエスの祈りに支えられて、天まで高く上がっていくだろう、と話された。

02 6月 2021, 16:23

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