教皇「イエスの愛に解放された聖ペトロと聖パウロ」

ローマの保護者、使徒聖ペトロ・聖パウロの祭日、教皇フランシスコは、バチカンでミサを捧げられた。

 カトリック教会の暦は、6月29日(火)、ローマの保護者、使徒聖ペトロ・聖パウロの祭日を迎えた。

 教皇は、同日バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられ、この中で最近任命された首都大司教らに託されるパリウムを祝別された。

 パリウムは、聖アグネスの日(1月21日)に教皇が祝別した子羊の毛を用いた白く細長い織物を輪状に仕立て、6か所に十字を刺しゅうしたもの。輪に首を通し祭服の両肩にかけるパリウムは、羊を背負う「善き羊飼い」を象徴する。

 首都大司教らは、教皇から与えられたパリウムを教皇大使の手を通し信者の前で着衣する儀式を、各自の国でとり行う。

 このミサは、現行の新型コロナウイルス感染拡大防止対策に従いつつ、多くの枢機卿や司教、信者たちの参加を得て、荘厳にとり行われた。

 また、ミサには、カルケドン府主教エマニュエルを団長とする正教会のエキュメニカル総主教庁の使節団が参列した。

 説教で教皇は、教会を支える2本の重要な柱、偉大な使徒、聖ペトロと聖パウロの信仰を見つめられた。

 2人の使徒の生涯の中心にあるものは、彼らの優秀さではなく、生涯を変えたイエスとの出会いであった、と教皇は述べ、イエスの愛にいやされ解放された彼らは、人々を解放するための使徒となった、と話された。

 ペトロは、イエスの無条件の愛によって、自分の不適格さに対する思いや失敗による挫折から救われた、と述べた教皇は、イエスとペトロの絆を表す、様々な場エピソードを思い起こされた。

 ペトロが、経験豊かな漁師でありながら、夜通し働いても、何もとれず、敗北感を抱いていた時(参照 ルカ5,5; ヨハネ21,5)、屈強で激しい性格である反面、すぐに怖れにとらわれる時(参照 マタイ14,30)、主の情熱的な弟子であっても、この世の論理にしばられ、キリストの十字架の意味を理解できない時(参照 マタイ16,22)、イエスのために命を捧げる覚悟を表明しながらも、イエスと一緒にいたと疑われただけで、イエスを知らないと答えてしまった時(参照 マルコ14,66-72)、こうしたペトロの弱さにも関わらず、イエスは彼を無償で愛し、彼という人間に賭け、励まし続けた、と教皇は語った。

 こうして、イエスは、ペトロを怖れや、安全を求める人間的な計算、この世の心配から解放し、すべてを投げ打つ勇気と、人間をすなどる漁師としての喜びを与え、まさに彼に兄弟たちの信仰を力づけるための使命を与えた(参照 ルカ22,32)、と教皇は振り返った。

 次に、教皇は、サウロ=パウロがイエスによって何から解放されたのかを考察。イスラエル王国の初代王にちなむ名を持つ「サウロ」は、自分自身の強いこだわりへの隷属から解放され、小さき者を意味する「パウロ」となった、と話された。

 パウロはまた、先祖からの伝承を守ることにおける熱心さ(参照 ガラテヤ1,14)や、キリスト教徒を迫害する暴力からも解放され、形式的な規律の厳守から、神と兄弟への愛へと自らを開いた、と教皇は語った。

 一方で、神はパウロから使徒職の試練や、体の弱さ(参照 ガラテヤ4,13-14)、暴力、迫害、遭難、飢え、渇き、また彼自身の「身に与えられた一つのとげ」(参照 2コリント12,7-10)を取り除くことはなかったが、これらの多くの弱さと困難はパウロの福音宣教の使命を豊かにした、と教皇は指摘された。

 わたしたちも主との出会いによって常に解放されることが必要、と述べた教皇は、自由な教会だけが、信頼し得る教会である、と説かれた。

29 6月 2021, 18:02