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教皇フランシスコ 2021年5月26日の一般謁見 バチカン・聖ダマソの中庭 教皇フランシスコ 2021年5月26日の一般謁見 バチカン・聖ダマソの中庭 

「謙遜な忍耐のもと主の恵みを待つ」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、5月26日(水)、バチカンの聖ダマソの中庭で一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、5月26日、バチカンの聖ダマソの中庭で、水曜日恒例の一般謁見を行われた。

 謁見中、教皇は「キリスト教的祈り」をテーマとしたカテケーシスで、「祈りが聞き入られないように思われる時」どうしたらよいのかを考えられた。

 わたしたちは祈り、懇願するが、その祈りが聞き入られないように思われる時がある。特に病者の健康や戦争の終結など、その祈りの動機が尊いものである時、願いが聞き入られないという思いがつまずきとなり、祈ることをやめてしまう人もいる(参照 カトリック教会のカテキズムn.2734)と教皇は述べた。

  教皇はここに、真の信仰体験を生きることなく、神との関係を魔法的な何かに取り違える危険を示された。

 実際、祈る時には、わたしたちが神にお仕えするのではなく、神を自分のために利用しようとする危険に陥りがちである(参照 同上 n.2735)と教皇は話し、そこに、ただ要求するだけの祈り、自分の思い通りに物事が運ぶことだけを願う祈りが生まれる、と警告された。

 これに対し、教皇はイエスが偉大な叡智をもって弟子たちに教えた「主の祈り」に注目。この祈りは神への懇願だけで構成されたものであるが、前半の祈りはすべて神のために、わたしたちの計画ではなく、神の御旨がこの世に行われるよう祈っている、と指摘された。

 「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」(参照 ローマ8,26)と聖パウロは記している。祈る時、わたしたちの言葉は祈りとしての実質を伴わなくてはならず、神が拒否される無駄な話であってはならない、と教皇は述べた。

 また、わたしたちは誤った動機で祈ることがある。たとえば神が戦争をどのようにお考えになるかを自問せずに、戦争で敵に勝てるようにと祈る場合がそれである、と教皇は述べた。

 多くの人は神が自分の側に立つことを切望するが、その一方で、自分自身が神と共にあるのかを自省する人は少ない、と教皇は話し、祈りを通して、神がわたしたちを回心させるのであり、わたしたちが神を回心させるのではない、と説かれた。

 しかしながら、真摯な心で祈る時、神の御国にふさわしいものを願う時、母が病気の子のために祈る時など、なぜ神は聞き入れてくださらないのだろうかと、動揺する時がある。この問いに答えるには、イエスが公生活で出会った多くの人々の祈り、またイエスご自身の祈りを、心を落ち着けて観想することを、教皇は勧められた。

 福音書の中で、人々の願いに対し、イエスは即座に答えられることもあれば、時間を引き延ばした後に答えられることもある。たとえば、カナンの女は娘の癒しを願ったが、それを聞き入れてもらうためには、粘り強く懇願し続けなければならなかった(参照 マタイ15,21-28)、と教皇は述べた。

 また、四人の友人によって運ばれてきた中風の人の場合は、イエスから最初に罪を赦され、その後で体を癒された(参照 マルコ2,1-12)と教皇は振り返り、このようにいくつかのエピソードにおいて、苦しみの解決がすぐには与えられないものもある、と語られた。

 こうした意味で、教皇は特に「ヤイロの娘の癒し」のエピソード(参照 マルコ5,21-33)を示された。

 このエピソードでは、瀕死の娘を助けてほしいとの会堂長ヤイロの願いをイエスはただちに受け入れ、共にヤイロの家に向かうが、イエスは、その途中でもう一つの別の癒し(イエスの服に触れた女の癒し)を行われた。そこへヤイロの娘はもう亡くなったとの知らせが届く。すべてが終わりに見えた時、イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われた。

 教皇はこのエピソードを観想しつつ、祈りを支えるのは信仰であるがゆえに「信じ続ける」ことが大切、と述べた。

 さらに、教皇は、ゲツセマニにおいては、イエスの御父に向けた祈りは聞き入られないかのように見えた、と強調。御子は受難の杯を飲み干さなければならなかったが、三日後、すなわち日曜日にイエスは復活された、と話された。

 終わりの日の主は悪ではなく神であり、その日は人類の希求のすべてが完成する日、と説いた教皇は、謙遜な忍耐のもとに主の恵みを待つよう信者らを励まされた。

26 5月 2021, 12:35

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