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教皇フランシスコによる2021年5月12日の一般謁見 バチカン・聖ダマソの中庭 教皇フランシスコによる2021年5月12日の一般謁見 バチカン・聖ダマソの中庭 

教皇「祈りは戦いだが、主は共におられる」

教皇フランシスコは、5月12日(水)、一般謁見をバチカンの聖ダマソの中庭で開催された。

 教皇フランシスコは、5月12日、水曜恒例の一般謁見を、信者参加のもとに、バチカンの聖ダマソの中庭(コルティーレ・ディ・サン・ダマソ)で開催された。

 教皇は昨年11月より、パンデミック対策のため、信者の参加を伴わない形で、バチカン宮殿からビデオを通し一般謁見を行ってこられた。教皇が一般謁見で信者たちと交流されるのは、およそ6か月半ぶりとなった。

 「皆さん一人ひとりとお会いできることを大変うれしく思います。わたしたちは神において皆兄弟で、こうして出会うことは互いのために祈ることを助けてくれるからです」と、教皇は巡礼者らに話しかけ、この集いへの参加を感謝された。

 この日、教皇は謁見中の「キリスト教的祈り」をめぐるカテケーシスで、「祈りの戦い」について考察された。

 教皇は、祈りとは一時的な気休めではない、と述べ、聖書や教会史で出会ういかなる偉大な祈り手も「楽な祈り」はしていない、と話された。

 祈りは確かに大きな平安を与えるが、それは時には辛く長きにわたる内面の戦いを通して得られるものであり、決してたやすいことではない、と教皇は語った。

 たとえば、わたしたちは祈ろうと思っても、すぐに他の本質的でないことで気を散らせ、祈りを後回しにしてしまうが、敵はこうしてわたしたちを陥れる、と教皇は述べた。

 神に結ばれた人たちは、祈りの喜びだけでなく、その難しさや苦労にも触れている、と言う教皇は、ある聖人は何年にもわたり、祈りに何の味わいも有益さも見出すことができなかった、と振り返った。

 沈黙・祈り・集中は難しいもの、と教皇は話しつつ、祈りたい人は、信仰とは簡単なものではなく、時には何の手がかりもない、完全な闇が生じることも忘れてはならない、と助言された。

 教皇は、祈りの敵になるものとして、「祈りによって本当に神にたどり着けるのか」「なぜ神は沈黙しているのか」という疑いや、神のとらえがたさを前にした「祈りは単なる心理的操作に過ぎない」「何かには役立つだろうが、本当に必要ではない」という考え、さらには信じることなしに実践だけする態度などを挙げられた。

 祈りの最悪の敵はわたしたち自身の中にある、と述べた教皇は、祈りの戦いとは、「すさみからくる失望、『たくさんの財産』を持っているのですべてを主に差し出すことのできない悲しみ、自分の望みどおりに願いが聞き入られないという落胆、罪深さを考えてかたくなになる高慢の傷、祈りの無償性に対する反感など」との戦いであるという、教会のカテキズム(n. 2728)を引用された。

 誘惑に揺らぐ時、それを乗り越えるにはどうしたらよいだろうか。教皇は、霊性の歴史の中で多くの師たちが与える助言に耳を傾けることを勧められた。

 中でも、聖イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」を挙げた教皇は、この偉大な叡智の書は、自分の生き方を整えることを教え、キリスト教的召命とは、悪魔の旗の下ではなく、イエス・キリストの旗の下にとどまり戦う決意であり、困難にあっても善を行う努力をすることだと教えてくれる、と話された。

 また、「修道生活の父」と呼ばれる聖アントニオ修道院長(251‐356)の祈りの戦いについて、教皇は、アレキサンドリア司教・聖アタナシオがその著書「聖アントニオ伝」で記したエピソードを紹介された。

 同伝は、聖アントニオが35歳頃に体験した最も深刻な霊的危機の一つについて語っている。聖アントニオはこの危機に動揺しながらも、それに耐え抜いた。ようやく平安が戻った時、彼は主に向かって「主よ、どこにいらしたのですか。なぜわたしの苦しみを終わらせるためにすぐ来てくださらなかったのですか」と不平を言った。すると、イエスは答えられた。「アントニオ、わたしはそこにいたのだ。しかし、おまえが戦うのを見るために待っていたのだ」(聖アントニオ伝、10)。

 さらに、教皇は祈りの戦いにまつわる話として、かつてアルゼンチンでご自分が間近で見たエピソードを次のように回想された。

 ある夫婦の9歳の娘が危篤な状態に陥り、病院の医師から、原因不明で手立てもない、この状態では翌朝までもたないだろう、と言われた。父親は電車に乗り60キロ離れたルハンの聖母巡礼聖堂に駆け付けたが、すでに夜中だったために聖堂の門は閉ざされていた。それでも、彼は門の柵を握りしめて一晩中祈っていた。教皇は「わたしは彼がそこで祈り戦っているのをまさに見たのです」と語った。やがて朝6時に聖堂の門が開くと、父親は聖堂内の聖母に挨拶し、すぐに帰って行った。戻ると、子どもの容態はすっかり回復していたという。

 この父親は祈り戦い、聖母の取次ぎによって神の恵みを得た、と述べた教皇は、祈りは戦いであるが、主はいつもわたしたちと共におられる、と話された。

12 5月 2021, 14:48

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