「わたしたちを神との関係に導くイエス」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、3月3日(水)、一般謁見をバチカン宮殿からビデオ中継で行われた。
謁見中の「キリスト教的祈り」をめぐるカテケーシスで、この日、教皇は「祈りと三位一体」について考察された。
教皇は、イエス・キリストの恵みによって、祈りは三位一体に、神の愛のあふれる海へとわたしたちを導く、と話された。
どのような言葉で、どういう気持ちで祈るべきかも知らなかったわたしたちに、天を開き、神との関係に導いてくれたのはイエスであったと教皇は述べ、弟子たちが師に願った「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11,1)という言葉には、神に向かう人間の暗中模索のすべてが込められている、と語った。
すべての祈りが同じというわけではなく、聖書は神に聞き入られなかった多くの祈りについても証言している、と教皇は指摘。「神は祈る者の手をご覧になる。それを清めるには手を洗うのではなく、悪い行いから遠ざかる必要がある」と話された。
そして、教皇は、「いかなる者もあなたの御名をお呼びするにはふさわしくありません」という、聖フランシスコの深く謙遜な祈り(「太陽の歌」)を思い起された。
さらに、教皇は、謙遜な祈りが受け入れられた最も感動的な例として、イエスに病気の僕のいやしを願った百人隊長の、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」という祈りを挙げられた。
つまずき続けるわたしたちは、神との対話という恵みに与るにふさわしくないが、イエスはわたしたちのために「開く扉」となられた、と教皇は話した。
人間を愛される神、「放蕩息子」のたとえや「見失った羊」のたとえに表されるその愛、人間のために死ぬことも辞さない神の姿は驚きを与えるが、イエスを知ることがなければ、わたしたちはそのような神を考えることも、理解することもできなかっただろうと教皇は語った。
「イエスの聖なる人性が仲立ちとなってこそ、聖霊はわたしたちに父である神に祈ることを教えてくださるのです」という教会のカテキズム(n.2664)を引用しつつ、教皇は、イエスの人性を介しわたしたちが三位一体のいのちに与ることが可能となった、と説かれた。