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ポルトガル外交官アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス と、1940年フランス・ボルドーの領事館発行のビザ ポルトガル外交官アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス と、1940年フランス・ボルドーの領事館発行のビザ 

教皇「良心の自由が、いつ、どこでも尊重されるように」

教皇フランシスコは、「良心の日」に際し、良心の自由の尊重をアピールされた。

教皇フランシスコは、6月17日(水)、バチカンで行われた一般謁見の席で、同日記念された「良心の日」について言及された。

教皇は、「良心の日」は、ポルトガルの外交官アリスティデス・デ・ソウザ・メンデスの証しからインスピレーションを受け生まれた記念日である、と紹介。

今からちょうど80年前、自身の良心の声に従い、ユダヤ人をはじめ当時迫害を受けていた人々、数万人のいのちを救った、メンデスの行いを思い起こされた。

この記念日にあたり、教皇は、「良心の自由がいつ、どこでも尊重されるように」、そして、「すべてのキリスト者が、神の御言葉に照らされたまっすぐな良心をもって、言動一致の模範を示すことができるように」とアピールされた。

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アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス(1885‐1954)は、ポルトガルの外交官として、1938年よりフランスのボルドーで総領事の任務に就いていたが、1940年5月、ナチス・ドイツのフランス侵攻に直面した。当時のポルトガル政府は、ユダヤ人をはじめとする避難民への同国通過ビザの発行を禁じた。しかし、メンデスはその命令に反して、同年6月16日、良心の声に従い、避難民のためにビザを無償で発行し始め、それは7月8日まで続いた。これによって脱出できた避難民はおよそ3万人、そのうち約1万2千人はユダヤ人であった。

政府の命に逆らったことで、緊急に本国に召還されたメンデスは、サラザール政権から罰せられ、懲戒免職となった。彼が持っていた弁護士の資格や運転免許もはく奪された。1948年に妻を亡くし、12人の子の家庭の父親として、その生活は困難を極め、リスボンのユダヤ系国際福祉団体の援助を受けた。1954年、リスボンのフランシスコ会の病院で貧しさのうちに亡くなった。

1966年、イスラエルのホロコースト犠牲者追悼施設ヤド・ヴァシェムは、メンデスに「諸国民の中の正義の人」の称号を授与した。1987年、ポルトガルでメンデスの名誉回復へのプロセスが始まり、自由勲章の授与、外交官としての地位回復、家族への正式な謝罪が行われた。

17 6月 2020, 18:48