教皇「神は試練にあるわたしたちを一人にしない」一般謁見
教皇フランシスコは、バチカンで5月1日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「主の祈り」の考察として、「わたしたちを誘惑におちいらせず」という部分を取り上げられた。
教皇は、この部分の訳をめぐり、以前から様々な意見があることを紹介。福音書にあるギリシャ語の表現は、正確な解釈が難しく、今日見られるどの訳もそれぞれ完全とは言えない点があると説明された。
いずれにせよ、どのように理解されるにしても、神が人間の歩みを脅かす誘惑の主役であるような解釈は、除外しなくてはならない、と教皇は強調。
御父は、子が魚を求めるのに、蛇を与えるような、悪を仕組む方ではなく、人の人生が悪による危機にさらされた時、人がその悪から解放されるよう、共に戦う方である、と説かれた。
試練と誘惑は、イエスご自身の人生にも神秘として存在し、神の御子はその体験を通して、完全にわたしたちの兄弟となられた、と教皇は述べた。
教皇は、イエスが罪びとたちの群れに交じり、洗礼者ヨハネから洗礼を授けられた後、荒れ野に行き、悪魔からの誘惑を受け、イエスがすべての誘惑を退けると、悪魔は離れ去り、天使たちが来てイエスに仕えたエピソードを思い起こされた。
そして、イエスの最も大きな試練として、教皇はイエスのゲツセマネの祈りを指摘。
わたしたちが最大の試練にある時、神はわたしたちを一人にしないが、イエスがゲツセマネで深い苦悶にあった時、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」(マタイ26,38)と言ったにも関わらず、弟子たちは眠ってしまった、と教皇は語り、イエスが体験した孤独と苦悩との闘いを、人となられた神の神秘の最後の封印として観想された。
わたしたちが試練にある時、その苦悩の谷をイエスも通られ、神の御子の存在によって、その谷は祝福されたものになったことを、慰めとするよう招く教皇は、「神は決してわたしたちを見捨てられない」と、信者らを力づけられた。