教皇フランシスコ、2018年10月17日、バチカンでの一般謁見 教皇フランシスコ、2018年10月17日、バチカンでの一般謁見 

十戒の「殺してはならない」とは、愛への招き、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、「十戒」の「殺してはならない」をめぐり考察を続けられた。

教皇フランシスコは、バチカンで10月17日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中の教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、先週に続き、モーセの「十戒」の第5戒「殺してはならない」をめぐる考察が続けられた。

兄弟への怒りに対する、イエスの教え

カテケーシスの冒頭、マタイ福音書の数節(5,21-24)が朗読された。

この箇所でイエスは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5,21-22)と教えている。

さらに、イエスは、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい」(同5,23-24)と、兄弟を決して罵らず、和解するようにと説いている。

「十戒」に、より深い意味を与えるイエス

教皇は、イエスはこの教えを通して、「十戒」中の「殺してはならない」という掟に、より深い意味を与えられた、と話された。

教皇は、イエスはここで、兄弟に対する怒りも、人を殺すことの一つの形であると明言しており、それは「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(1ヨハネ3,15)と、使徒聖ヨハネも記すとおりであると話された。

また、イエスはそれだけにとどまらず、同じ論理をもって、兄弟を罵ることや軽蔑することも、人を殺すことと同様にみなしていることを、教皇は指摘。

人間のどのような法律も、裁きにおいて、これほど異なるものを同列にみなしているものはないと話された。

さらに、イエスは、祭壇に供え物を捧げる前に、まず行って兄弟と仲直りをし、それから、供え物を捧げるようにと教えている。

「殺すな」とは、愛することへの第一歩

教皇は、イエスが「十戒」の第5戒「殺してはならない」の領域をここまで拡大したのは、なぜだろうかと問われた。

人間は気高く繊細な命を持ち、体と同様に大切な「わたし」を隠し持っていると述べた教皇は、無垢な子どもを傷つけるには、不用意な言葉一つで十分であり、一人の人を破滅させるには、彼を無視するだけで足りると語られた。

こうしたことから教皇は、「『愛さない』ことは、殺すことへの最初の一歩であり、それに対し、『殺すな』ということは、愛することへの第一歩である」と説かれた。

人間の命には、愛が必要

教皇は、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」という神の問いに、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4,9)と答えた、聖書における最初の殺人者、カインの言葉を引用。

「お前の兄弟は、どこにいるのか」という神の問いに、「知らない。わたしには関係ない」という殺人者たちに対し、わたしたちは兄弟たちを「知っている」「わたしたちは互いに守り合う関係にある」と答えられるようでなければならない、と話された。

「人間の命には愛が必要」と教皇は述べ、真の愛とは「キリストがわたしたちに示されたいつくしみ」「自分を傷つけた者を、赦し、受け入れる愛」であると説かれた。

誰もがいつくしみや赦しなしでは生きることができない。それゆえ、殺すことが、誰かを破壊する、排除することであるならば、殺さないとは、その人を大切にし、価値を与え、受け入れ、赦すことである、と教皇は語られた。

教皇は、「十戒」の「殺してはならない」という掟は、最も重要で本質的な呼びかけ、すなわち「愛への招き」である、と話された。

 

17 10月 2018, 17:33